FEATURE1
第62回神宮式年遷宮は、
平成25年の10月に予定している遷御に向け、
これまで遷宮諸祭・諸行事とも
滞りなく執り行われています。
今年(平成24年)には、
新宮の造営が本格的にはじめられます。
そして、今次遷宮の付帯事業として
外宮・勾玉池池畔にせんぐう館を創設しました。
本サイトの特集第1回目として、
神宮の新しい施設であるせんぐう館について、
式年遷宮の意義とともにその果たすべき役割を、
神宮大宮司・鷹司尚武がお答え致します。
今次遷宮の進捗について
<大宮司>最近神宮にお参りされた方は、正宮に隣接する御敷地で白い覆い屋が建てられていることに気付かれたかと思います。これを簀屋根と呼び、中では新しい社殿が建て始められています。本年は立柱祭が3月4日に内宮、3月6日に外宮で、上棟祭が3月26日に内宮、3月28日に外宮でそれぞれ斎行して作業の無事をお祈りし、いよいよ本格的な造営工事に入っていきます。大神様に捧げる御装束神宝の調製も順調に進んでいるとの報告を受けています。
様々なメディアで神宮と式年遷宮について紹介されているので、一般の関心も高まり、多くの方が伊勢へお参りに来ていただいています。
神宮参拝のはじまりについて教えてください
<大宮司>皇大神宮(内宮)は第11代垂仁天皇26年に天照大神の御神意を受けて、五十鈴の川上である現在地に御鎮座されました。天照大神は皇室の御祖神ですので、古くは宮殿の奥深くにおまつりされていましたが、第10代崇神天皇の御代に同じ宮殿にまつることは恐れ多いとして、おまつりするのに相応しい土地を求められました。そのため歴代天皇はみずから御参拝されることはなく、中世・後醍醐天皇の御代までは代々未婚の皇女が斎王として奉仕されました。
また歴代天皇は、神嘗祭の折に例幣使と呼ばれる使者を差遣して幣帛を捧げました。この他に御代始や天変地異といった朝廷大事の時に、三位以上の位にある公卿または、参議の者が任じられ、臨時で神宮に使者を遣わして幣帛を捧げています。この使者を「公卿勅使」といい、『二所太神宮例文』には平清盛がこの役目で三度神宮にお参りしていることが記録されています。
律令制の時代、神宮には天皇以外の者が幣物を捧げることを禁じた「私幣禁断」という制度があり、皇后や皇太子であっても天皇の許可を得なければ奉幣できないという厳粛な決まりがありました。
では伊勢参拝とはごく限られた人々だけのことだったのでしょうか
<大宮司>平安時代末期となると律令制がゆるみ、各地に荘園が出来、武士の台頭とともに公(国家)のほかに私を加えた新たな寄進や祈祷の道が開かれました。その結果、神宮への信仰が地方に広がり、参拝者の厚みも次第に増えていきました。
室町時代には、足利義満をはじめ室町幕府の将軍が頻繁に参拝しており、『伊勢参宮紀行』などの参詣道中記を残していますし、戦国時代には織田信長が永禄12年(1569)に両宮を参拝しています(『信長公記』)。そして江戸時代には、太平の世になり交通網の整備や
いま両宮に参拝することの意味について
<大宮司>神宮とは内宮・外宮の両正宮、14の別宮のほか摂社、末社、所管社あわせて125社の総称です。時間があればそれぞれのお社を巡拝いただけると、日本人の心のふるさと、伊勢の自然と神宮との関わりが体感出来て素晴らしいのですが、余裕のない方はせめて両宮のご参拝だけでもとご案内しております。
外宮の豊受大神は内宮の天照大神の御饌(お食事)を司る神様でもあり、古くから「お伊勢参り」といえば外宮をお参りしてから内宮をお参りすることがならいとなっていました。
せんぐう館に求められる役割とは
<大宮司>せんぐう館は今回の式年遷宮の付帯事業として創設されました。伊勢神宮の新しい博物館として、神宮の持つ基本的な情報を適切に伝えることを重視し、一般の方々によりわかりやすく、様々な形で発信することに努めるべきであると考えています。
かつてのお伊勢参りが外宮から内宮と行われていたように、外宮のお参りの後にせんぐう館に立ち寄られ、神宮と式年遷宮の心と技を知っていただき、内宮をお参りする。もちろん、参拝で深まる神宮・神道への興味が、倉田山にある神宮徴古館や神宮美術館の展示で知識や教養として深まれば、なおよいことだと思います。せんぐう館の開館をきっかけに、外宮・内宮そして倉田山という三つの地点が意味あるひとつの線につながることによって、伊勢の地域活性化にも寄与することを期待しています。